舞ちゃんが熱を出してしまいました。そのことにはあまり触れぬまま治ってしまいましたね。みんなが食堂で舞ちゃんのことを心配している場面で、木彫りの熊が映っていました。北海道の民芸品といったら木彫りの熊、木彫りの熊といったら北海道というくらいのものですよね
木彫りの熊の由来
現在、木彫りの熊は「アイヌの伝統工芸品」とのイメージが強い
だが、伝統的なアイヌ文化においては
「リアルに象られた物は、魂を持って悪さをする」との考えがあり
アイヌは動植物、あるいは人物の姿をリアルな形で木彫としたり
絵画として描いたり、織物に織り込むことはしない
ましてカムイとされるヒグマをリアルな姿で木に彫り込むのはあり得ないことだった
しかし、続縄文時代・擦文時代の北海道の遺跡からは熊形意匠の遺物が出土されている
現在の熊の木彫りは
お土産として尾張徳川家の当主であった徳川義親が
1921年から1922年にかけての欧州旅行の際に立ち寄ったスイスのベルンで
熊の木彫りを購入したことが契機である。
翌1923年(大正12年)に、北海道二海郡八雲町にある旧尾張藩士たちが入植した
農場「徳川農場」に送り、農場で働く農民たちや付近のアイヌに
冬期の収入源として熊の木彫りを生産するよう勧めた
その結果、1924年に開催された
第1回八雲農村美術工芸品評会に北海道で最初に作られた熊の木彫りが出品された
しかし、八雲町での木彫り熊の生産は次第に衰退し
2012年には生産者は一人のみになっている
八雲町には、2012年4月25日に八雲町郷土資料館内に八雲木彫り熊展示室が開設されており
2014年4月1日にはリニューアルされて八雲町木彫り熊資料館としてプレオープンしている
この資料館には、徳川義親がスイスから持ち帰った木彫り熊や
北海道第1号の木彫り熊をはじめとする多数の木彫り熊が展示されている
また、資料館が位置する八雲町公民館の敷地内には
木彫熊北海道発祥記念碑が建立されている
もう一方の木彫りの熊の発展ルート
一方、旭川市では、1926年にアイヌの松井梅太郎が木彫り熊を作ったことをきっかけに
木彫り熊の生産が盛んになった
当時旭川には第七師団があり
本州から来た軍人家族などへの土産ものとして人気となったという
旭川の木彫り熊は、八雲の影響を受けているという説と
独自のものであるという説がある
1936年に昭和天皇が北海道を行幸した際には
八雲と旭川からそれぞれ木彫り熊が献上された
アレンジも様々、ポップな木彫りの熊も
一時は隆盛を誇った「木彫りの熊」であるが
現在では土産物の主役の座を譲り
職人の数も減り続けている
一方で、21世紀に入ってからは北海道教育大学の阿部吉伸准教授をはじめ
伝統的な美術工芸品として見直し
アカデミックにルーツを探ろうとする動きが現れている
近年ではアレンジ作品も多々存在し
「捕まえた鮭を背負う熊」
「立場が逆転し鮭に噛まれる熊(食われ熊)」
「跳ねた拍子に四つん這いのリングマのアゴにぶつかるコイキング」など種類も豊富
デフォルメされたぬいぐるみも存在する

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