「どうする家康」茶屋四郎次郎とはどんな人物 金平糖(コンフェイト)は金塊と同じ価値だった

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『どうする家康』は、2023年1月8日から放送されているNHK大河ドラマ第62作でNHKテレビ放送開始70周年及び大河ドラマ放送60周年記念作品。室町時代後期から江戸時代を舞台に徳川家康の生涯を描く

家康が上洛の際、金平糖(コンフェイト)を探してもらうのに頼んだ人物、茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろう、ちゃやしろじろう)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての公儀呉服師を世襲した京都の豪商の通称。当主は代々「茶屋四郎次郎」を襲名する習わしであったようです。

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茶屋四郎次郎とは?

3世代にわたって徳川家康を支えた京都の豪商で

正式な名字は中島氏

信濃守護小笠原長時の家臣であった中島宗延の子の明延が武士を廃業し

大永年間(1521年~1527年)に京に上って呉服商を始めたのがはじまりとされる

「茶屋」の屋号は将軍足利義輝がしばしば明延の屋敷に茶を飲みに立ち寄ったことに由来する

茶屋家は屋敷を新町通蛸薬師下る(現在の京都市中京区)に設け、160年にわたって本拠とした

明延の子の初代清延が徳川家康と接近し

徳川家の呉服御用を一手に引き受けるようになった

 

三代清次は家康の側近や代官の役割も務め、朱印船貿易で巨万の富を築いた

「京の三長者」と言われ

しかし鎖国後は朱印船貿易特権を失い

以後は呉服師・生糸販売を専業とするようになった

金平糖を頼まれたのは初代:茶屋四郎次郎 清延

家康の元に現れた三河商人:初代”茶屋四郎次郎” 清延(きよのぶ)で

家康は金平糖を探してほしいと頼みましたが

当時の金平糖(コンフェイト)はとても貴重で4人分も頼んできた家康一行に説教します

織田信長も好んで食べている様子が色々なドラマ・時代劇で見られますが

当時の権力者だけが食べられるものだったようです

”茶屋四郎次郎” 清延

明延の子で「茶屋四郎次郎家初代」とされる人物

若い頃は家康に仕え、三方ヶ原の戦い等で活躍して橘の家紋を賜ったとされる

本能寺の変の際、堺に滞在中であった徳川家康一行に早馬で一報し

後世に「神君伊賀越」といわれた脱出劇の際、物心ともに支援を行った

この恩により、徳川家康の御用商人として取り立てられる

1596年死去。享年52。

どうする家康では、見事にたくさんの金平糖(コンフェイト)を手に入れてきました

歴代:茶屋四郎次郎

二代目:茶屋四郎次郎 清忠( きよただ)

初代の長男。父の地盤を引き継ぎ、徳川家御用達商人をつとめた

豊臣秀吉死後、徳川家康の権勢が絶大になるに及び

清忠も「淀川過書船支配」など京・大坂の物流の取締役に任命され、優遇されるようになる

1600年の関ヶ原の戦い後には京都の情勢不穏を家康に進言し

京都所司代設置のきっかけを作った

板倉勝重が所司代に就任すると上方五カ所(京都・大坂・奈良・堺・伏見)

町人の御礼支配、京都町人頭にも任命されたが、1603年に死亡した

三代目:茶屋四郎次郎 清次(きよつぐ)

二代の弟で、長谷川藤広の養子となっていたが、兄の急逝のため江戸幕府の命で急遽跡を継いだ

呉服師の一方で藤広の長崎奉行就任後は長崎代官補佐役などを務める

1612年、朱印船貿易の特権を得ることに成功し

主にベトナム北部に船を派遣し、莫大な富を得た

その財産によって茶道具を蒐集し

本阿弥光悦らの芸術支援にも熱心であったが、1622年に38歳で死去した

しばしば俗説では、徳川家康の死因は鯛の天ぷらをたべたことであるとされ

その天ぷらを家康に勧めたのは清次とされる

『徳川実紀』東照宮御実記附録巻十六には、以下のような話が記載されている

元和2年(1616年)1月21日、駿河国田中で鷹狩を行った際

家康は清次に上方での流行を尋ねた

清次は「タイをカヤの油で揚げ、その上にニラをすりおろした物をかけた料理」が流行っており

自分も食べたがとてもいい香りがしたと答えた

家康は調理を命じてその料理を食べたが、その夜に腹痛を訴えたという

17代目:中島恒雄

清延の17代目子孫、尾州茶屋家当主の中島恒雄東京福祉大学を創立し

運営する学校法人名を「学校法人茶屋四郎次郎記念学園」としている

当時の金平糖(コンフェイト)の価値

当時の金平糖(コンフェイト)は恐ろしく高価だったと伝えられています

茶屋四郎次郎

「南蛮人がわずかに持っているだけで、こんな一粒を買うのに山城を1つとも2つとも」

といい、4人分も所望した家康一行は驚いていました

 

当時の日本には砂糖が年間150キロしかなく

砂糖を使ったお菓子を食べることは

お金持ちにしか許されていませんでした

そのため、権力の象徴として砂糖をつかったお菓子を出したり

金と同じくらいの価格で取引されたそうです

そんな時代に砂糖の塊である金平糖を貰うのは

要するに金塊を貰ったも同然の事です

それは見るからに馬鹿そうな足利義昭は

家康から取り上げた金平糖(コンフェイト)をバクバクを食べたのでした

瀬名たちが楽しみにしていた金平糖(コンフェイト)は残念ながら持ち帰れなさそうです

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自らの弱さに歯がゆさを感じつつも、家臣たちとの絆を深め、一体感あふれる、チーム徳川をつくりあげていく。

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