『どうする家康』は、2023年1月8日から放送されているNHK大河ドラマ第62作でNHKテレビ放送開始70周年及び大河ドラマ放送60周年記念作品。室町時代後期から江戸時代を舞台に徳川家康の生涯を描く
糸=「早川殿」(はやかわどの)は「海道一の弓取り」と称され、駿河国(するがのくに:現在の静岡県中部、北東部)を中心に勢力を拡大した「今川義元」(いまがわよしもと)の嫡男「今川氏真」(いまがわうじざね)の正室です。今川家と北条家における政略結婚でありながら、両家が決裂しても離縁することなく、最期まで添い遂げた2人は、戦国時代のおしどり夫婦として知られています。
しかし、「どうする家康」では氏真と糸の仲は良好ではないようです。
愛を貫き、戦国の世を生き抜いた早川殿”糸”の生涯を史実と共にご紹介します。
”糸”の生い立ち
出生年や生母を確定できる史料はなく
長らく系図類をもとに「北条氏康の庶出の長女、北条氏政の異母姉」と理解されてきたが
北条氏・今川氏の家族関係の研究の進展に伴い
北条氏康と瑞渓院(今川氏親の娘)の間の女子で、北条氏政の同母妹と
北条氏康とその正室「瑞渓院」(ずいけいいん)の長女であったと考えられます。
早川殿は、1554年(天文23年)「今川氏真」(いまがわうじざね)が
17歳のときに姉女房として嫁入りし、5人(男4人、女1人)の嫡子を儲けました
生母の問題については
瑞渓院の北条家嫁入の時期の問題が関わるとのことです
従来、北条氏康の正室である瑞渓院は天文6年(1537年)嫁入とされ
北条氏政は天文7年(1538年)生まれとされたため
早川殿を「北条氏政の姉」とする場合は瑞渓院以外の所生と考えられていました
けれども、瑞渓院の嫁入は天文4年(1535年)頃とする見解が
有力視されるようになり、たとえ早川殿が「氏政の姉」であっても
瑞渓院所生(氏政の同母姉)であることが成り立つとのことです
今川氏との通婚という重要な政治課題を担う上では
瑞渓院の所生(今川氏真とはいとこ婚になる)と見た方が妥当視されるとのことです
どうして氏真と結婚した
【三国同盟の成立】武田・小田原北条・今川氏の間で
甲相駿三国同盟が結ばれると、早川殿はその婚姻政策の一環として
天文23年(1554年)7月に今川義元の嫡子氏真(17歳)の許に嫁ぎました
行列の行程や婚儀の具体的な様子についての史料は残されていませんが
甲斐で記された「勝山記(妙法寺記)」には
輿入の行列の見事さが伝聞として記されています
「駿河の屋形様へ相州屋形様の御息女を迎い御申し候、御供の人数の煌めき、色々の持ち道具、我々の器用ほど成され候、去るほどに見物、先代未聞に御座有る間敷く候、承け取り渡しは三島にて御座候、日の照り申し候事は言説に及ばず、余りの不思議さに書き付け申し候」
現代語で訳すと
「北条家から供奉した家臣は、きらめくような武具(持ち道具)で婚姻行列を飾り、沿道は見物人で前代未聞というほどの賑わいを見せたという。花嫁の受け渡しは、境目である三島で行われた。この日はことのほか天気が良かったという。」
どうする家康では
”糸”は氏真の正室となってはいましたが
階段から落ちた怪我で歩行や座ることが苦手で
氏真が好いていた”瀬名”の代わりにあてがれたように描かれています
武田信玄から今川を挟み撃ちで討とうという
なかば強制的な約束をさせられた家康
本当は今川義元との約束「氏真を支えてあげてくれ!」という言葉が
頭から離れない家康でした
そんな感情のまま、氏真と家康との戦いは4か月以上も長引きます
徐々に劣勢となる氏真の今川軍
今川軍は今川義元が治めていた時とは違い
家臣に当たり散らす氏真に愛想をつかした者たちは
今川領を離れて今川は衰退の一途を辿っていました
氏真と家康が対峙した時、氏真は自害しようとしますが
”糸”が義元が言っていた氏真への言葉を伝えると
氏真は”糸”の実家、北条への口添えを家康に頼むのでした
史実では仲睦まじい夫婦となっていましたが
「どうする家康」ではこのあとから仲睦まじい感じになるのでしょうか?

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