「どうする家康」の公式サイトで新たにキャストの発表があった、その中に”鳥居強右衛門”(すずきすねえもん)という日本史が好きならばよく知っている人物がいる。戦国版”走れメロス”と言われ敵軍に城を囲まれ、籠城中の城から抜け出し信長・家康軍に援軍の要請をし、城にいる仲間に援軍が来ることを伝えるという大事な役割なのだが・・・そのあとに”鳥居強右衛門”を有名にさせた出来事が待っている。
奥平家の足軽
”鳥居強右衛門”が歴史の表舞台に登場するのは
1575年の長篠の戦いの時だけで、それまでの人生についてはほとんど知られていない
それもそのはず数いる家臣の中のただの足軽なのだ
特筆するほどの剣術を身に着けているわけでもなく
みんなが目を見張る知力があるわけでもなく
誰もが羨ましがる美貌なわけでもなく
ビックリするような人脈があるわけでもない
ただのどこにでもいる足軽なのだ
”鳥居強右衛門”が仕えていた奥平氏は
もともと今川氏や織田氏、徳川氏と所属先を転々とした国衆であったが
1570~1573年の間は甲斐:武田氏の侵攻を受けて
武田家の傘下に従属していた
ところが、武田家の当主であった武田信玄が元亀4年の4月に死亡し
その情報が奥平氏に伝わると、奥平氏は再び松平氏徳川氏に寝返り
信玄の跡を継いだ武田勝頼の怒りを買うこととなった
食糧庫が燃え 絶対絶命に
奥平家は三河国の東端に位置する長篠城を徳川家康から託され
約500の城兵で守備していたが、長篠城は武田勝頼が率いる1万5,000の軍に攻撃され
長篠城を包囲されてしまった
開戦に始まったあとも周囲を谷川に囲まれた自然の要塞
長篠城は何とか防衛を続けていたのだが
武田軍から放たれた火矢によって、城の北側に在った兵糧庫を焼失
食糧を失った長篠城は長期籠城の構えから一転
このままではあと数日で落城という絶体絶命の状況に追い詰められた
そのため、当主・奥平貞昌は最後の手段として
家康のいる岡崎城へ使者を送り
援軍を要請しようと決断した
(一方、岡崎城の家康もすでに武田軍の動きを察知しており、長篠での決戦に備えて同盟者の織田信長に援軍の要請をしていた)
武田の大軍に取り囲まれている状況の下
城を抜け出して岡崎城まで赴き
援軍を要請することは不可能に近いと思われた
この命がけの困難な役目を自ら志願したのが”鳥居強右衛門”であった
史料では”鈴木金七郎重政”も同行
夜陰に乗じて城の下水口から出発した”鳥居強右衛門”だった
川を潜ることで武田軍の警戒の目をくらまし、無事に包囲網を突破した
長篠城からも見渡せる雁峰山から狼煙を上げ、脱出の成功を連絡
岡崎城にたどり着いて、援軍の派遣を要請した
この時、信長の援軍3万が岡崎城に到着しており
織田・徳川連合軍3万8,000は翌日にも長篠へ向けて出発する手筈となっていた
これを知って喜んだ強右衛門は、この朗報を一刻も早く味方に伝えようと
すぐに長篠城へ向かって引き返した
帰り道も同じ山で狼煙を掲げた後
さらに詳報を伝えるべく入城を試みた
ところが、城の近くの有海村(城の西岸の村)で
武田軍の兵に見付かり、捕らえられてしまった
狼煙が上がるたびに城内から上がる歓声を不審に思う包囲中の武田軍は
警戒を強めていたのであった
史実では”鳥居強右衛門”のほかに”鈴木金七郎重政”という
足軽も後を追い同行していたといわれているが
援軍要請の役目を果たした後に長篠城へ向かって引き返したのは強右衛門だけで
金七郎はそのまま岡崎城に残り、強右衛門のように英雄として名を残すことはなかった
磔にされた”鳥居強右衛門”
強右衛門への取り調べによって
織田・徳川の援軍が長篠に向かう予定であることを知った勝頼は
援軍が到着してしまう前に一刻も早く長篠城を落とす必要性に迫られた
そこで武田勝頼は、命令に従えば強右衛門の命を助け武田家の家臣として厚遇することを条件に
”援軍は来ないからあきらめて城を明け渡すべき”
と虚偽の情報を城に伝えるよう、強右衛門に命令した
こうすれば城兵の士気は急落して
城はすぐにでも自落すると考えたのである
強右衛門は武田勝頼の命令を表向きは承諾し
長篠城の西岸の見通しのきく場所へと引き立てられた
しかし、最初から死を覚悟していた強右衛門は
”あと二、三日で援軍が来るからそれまで持ちこたえるように!!”
と城に向かって叫んだ
これを聞いた武田勝頼は怒り狂い
その場で部下に命じて強右衛門を磔(はりつけ)にして殺したそうだ
この強右衛門の決死の報告のおかげで「援軍近し」の情報を得ることができた
奥平貞昌と長篠城の城兵たちは
強右衛門の死を無駄にしてはならないと大いに士気を奮い立たせ
援軍が到着するまでの二日間
武田軍の攻撃から城を守り通すことに成功した
援軍の総大将であった信長も
長篠城の味方全員を救うために自ら犠牲となった強右衛門の最期を知って感銘を受け
強右衛門の忠義心に報いるために立派な墓を建立させたと伝えられている
子孫たち
強右衛門の子孫は、高名となった強右衛門の通称を代々受け継いだ
強右衛門勝商の子・鳥居信商は
父の功により100石を与えられ
奥平貞昌の子・松平家治に付属した
家治が早くに亡くなると貞昌のもとに戻り、関ヶ原の戦いに従軍
京都で安国寺恵瓊(あんこくじえけい)を捕縛する大功により200石に加増された
その後、貞昌の末子・松平忠明が家康の養子として分家を興すに至り
鳥居信商を家臣にもらい受けている
また、13代目の鳥居商次が家老になるなど、子孫は家中で厚遇された
強右衛門の家系は現在も存続している
走ると自然に口ずさむ癖がある設定の”鳥居強右衛門”
「どうする家康」の公式サイトの紹介文には
”ろくでなし強右衛門”と呼ばれる、ふだんはやる気も勇気もない奥平家の地侍。武田軍に攻め込まれ、絶体絶命の長篠城を救うため、武田包囲網を突破して、岡崎城の家康のもとに助け求めるミッションを帯びる。走ると自然に歌を口ずさむ癖がある。
このように紹介されている
この”歌を口ずさむ癖”の為に”鳥居強右衛門”は
武田軍に見つかってしまうという
本当は感動するような重たい話を
コミカルに表現するのではないでしょうか?
”鳥居強右衛門”を演じるのがアーティストの”岡崎体育”さんという
配役も絶妙な感じもします
もしかしたら鼻歌どころか大声で歌を歌ってしまうような
そんな豪快な役かもしれません
どのようなキャラクターで登場するのか楽しみでたまりませんね
コメント