『どうする家康』は、2023年1月8日から放送されているNHK大河ドラマ第62作でNHKテレビ放送開始70周年及び大河ドラマ放送60周年記念作品。室町時代後期から江戸時代を舞台に徳川家康の生涯を描く
三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)は、元亀3年12月22日(1573年1月25日)に、遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こった武田信玄と徳川家康・織田信長の間で行われた戦いのことだ。武田軍は武田信玄はじめ家臣が”赤い兜”や”赤い鎧”をまとって戦っていて、”武田の赤揃え”と呼ばれていて、その姿を見ただけで逃げてしまうものもいたという。
三方ヶ原の戦いは、武田軍の圧倒的な戦力で日没までのわずか2時間ほどの会戦で連合軍は多数の武将が戦死してしまう。武田軍の死傷数200名に、対して徳川軍は10倍の2000名の死傷者をだしてしまい、鳥居四郎左衛門、成瀬藤蔵、本多忠真、田中義綱といった有力な家臣をはじめ、家康の身代わりとなった夏目吉信、鈴木久三郎といった家臣、また織田軍も平手汎秀といった武将を失った。
※アイキャッチ画像は「どうする家康」第12話の場面より(C)NHKより
武田の赤備え
武田信玄率いる武田軍の赤備えを
最初に率いたのは
後世に「甲山の猛虎」とも謳われた飯富虎昌で
騎兵のみからなる
騎馬部隊として編成された
元々朱色は侍の中でも
多くの首を上げた者にのみ大名から賜るものだった
そこで飯富虎昌は
”自領は父からは譲られず自らの槍働きで稼ぐしかない”
各武将の次男たちを朱色で統一した
赤備の部隊に組織化
現代風にいえば切り込み隊として組織した
虎昌が義信事件に連座し切腹すると
虎昌の部隊は彼の弟(甥とも)とされる山県昌景が引継ぎ
同時に赤備えも継承したという
虎昌・昌景の両者は『甲陽軍鑑』において
武勇に秀でると共に武田家及び
武田軍の中心として活躍した武将として記されており
両名の活躍が赤備えの価値を高めたと言える
武田家中では昌景と共に
小幡信貞、浅利信種の2名が赤備えとして
編成され軍隊総勢千騎もいたという
実は様々な色彩の装備の部隊がいた
武田信玄が武田信豊に対し
装備を朱色で統一することを独占的に認めており
天正2年文書では武田勝頼により
武田信豊の一手衆が黒出立(くろいいでたち)を
使用することを許可されており
武田軍では一手衆ごとに
色彩を含めて兵装の規格化が
整えられていたと考えられている
「衆」とは部隊の規模を表す単位で
「備」「衆」「隊」「組」「勢」「手」…本稿に於ける最小戦術単位としての意味以外にそれらを複数有する部隊又はそれらの数え方を指す(例:織田勢、井伊隊、雑賀衆、先備三手など)事やそれ以下の各兵科単位の部隊又はそれらの数え方を指す(例:槍組、鉄砲衆、弓隊、大番六備など)事などがある
しかし、武田軍の赤揃えが以上に
強かったので「赤揃え=精鋭部隊」という
イメージが諸大名の間に定着していった
その為、真田信繁や井伊直政も
赤揃えにあやかりたいという事で
赤揃えを採用したと考えられる
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